伊鬱は晴れない

「んぐ…ッ!」

まずは一発。力一杯の回し蹴りに脆弱な男は大袈裟に吹っ飛ぶが、誰かに助けられることも、ましてや見られることもない。こいつに呼び出されたのはそういう場所だ。

「いいね、森と海。両方を間近でみられるなんて。もっとも、こんな崖があっては海に降りることはできないけど」

波音と広葉樹林が共存するのはここが高い崖の上にあるからだろう。潮の匂いと木の葉の重なる音が同時に聞こえるなんて感覚がおかしくなったようだ。

「ふふ……気に入ってもらえたならよかった。ねぇここ、学園の近くなんだよ」

知ってた?
血が滲む口元を緩ませて笑う伊作と違って、私は少し泣きそうだ。

「学園の側なんだ、知らなかったな」

きっと、他にもたくさんあるんだろうな、知らないところ。学園の中も外も。皆が連れ出してくれた所しか知らない。
皆が知ってるところも自分は知らないと思うとなんだか無性に悲しくなった。

「知らないよね、は、どうやって死のうかしか、考えてこなかったから」
「え?なんて?」

伊作の口は動いているのに波の音に負けて声が届かない。聞き返してもどこか苦しそうに笑うだけで肝心の答えはくれなかった。
一度は立ち上がろうとした伊作だが、少しばかり顔を歪めてまた座り込む。その姿に私は内心舌打ちをする。蹴りどころが悪かったのか想像以上に伊作が脆かったのか、骨が折れたのだろう。
そのまま背中を木の幹に預け懐から何かを取り出したが、あれはなんだ?


「留三郎に後輩を……富松作兵衛君を殺させたのは僕なんだ」
「は?」

おもむろに口にされた言葉は、あまりに重く、吐き気さえするような不快感を含んでいた。

「僕が作った毒はね、炮烙火矢に入れて使うものなんだ。実用試験の時点で、町の半分が毒に蝕まれるほどの威力を持っていた」

「試験で使った村には、事前に注意換気していたんだ。『殺されたくなければ村を捨てろ』。脅迫でも何でもいい。罪悪感はあれど、とにかく村人たちには死んでほしくなかったから……」

波の音がうるさい。そう思ってしまうのはただ伊作の声が小さいからだ。聞き漏らさないよう、視覚も嗅覚も今はなりを潜めただ聴覚を尖らせた。

「知らなかった、なんて、言い訳だよなぁ……僕は、僕の作った恐ろしい死神を後輩に向けてしまったんだ……」
「……」

集中して耳を澄ましながら頭の端っこでは昔、伊作が薬板で雑草のような草を切り分けながら話していた事を思い出した。


『傷と違って、毒は種類や症状の度合いが分かりづらいから、他人にはその苦しみが共感しづらいんだ』
『確かに、その毒が痛覚を刺激するものなのか呼吸器官を刺激するものなのかは一瞬では判別つかないよね』
『だからこそ、苦しむその人を前に何もできない自分を、無力で薄情者に思えてくる』

『まぁそうだね。苦しみを伴う死は、するのも見るのも嫌なもんだ」


「だから僕は、自分の作った死神と共に逝くよ」

伊作の声に我に返る。今、なんて?

「勿論製造方法は紙に残していない。毒薬もまだこれしかない。これを飲んで僕は死ぬよ」
「狂ってるんじゃないのか……?」

留三郎への罪滅ぼしとでも言うつもりか。そんなの、あのお人好しが望むわけないだろうに。

「多分苦しくて喋れなくなっちゃうから先に言っておくね。『殺してくれてありがとう』」
「絶対殺してやらない。せいぜい見届けるだけだよ」

本当は、今すぐ駆け寄ってその手の瓶を弾き飛ばしてしまいたい。死ぬことを許さずに骨の折れたその体を揺さぶってこの黒く淀んだ感情を全てぶつけてしまいたい。
でも、約束は、違えるわけにはいかないから。せいぜい自分の作ったその毒で、苦しんで死ね。

伊作の口に瓶が触れる。
まるで水を飲むように躊躇いなく、自然に、毒を飲む。

どくどくどくどく。
この気持ちは仙蔵を殺したときと何一つ変わらない。

どくどくどくどく。
毒を飲んだのは私だったか?

どくどく、毒どく………心臓が痛い。

「ゲホ…ッハッ、ハァッ……!」
「伊作ッ!」

苦しんで死ねと見下したその体に、毒でむせるその喉に、私は、反射的に刃を突き立てた。

慣れとは本当に恐ろしいもので、私な短刀は見事頸動脈を捉え、伊作の脈が私の腕の中でみるみると弱っていくのを感じた。

「元を辿ればお前が!お前があんなことを言い出すから…ッ!」
「……、うん、ごめんよ、…それと……」

最期の言葉は、ありがとうだったと思う。最期に吐き出した空気の中に隠れるように漏れた言葉を、私の耳は都合よく聞き取っただけかもしれないが。

「終わった……やっと……」


伊作のいなくなった体をそっと抱き抱える。お前の予言通りになるのが癪でたまらないよ、伊作。
もう空気の漏れる音さえしない。私の衣を掴む手がずるりと落ちて、ここは無音に包まれた。



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