短命試験期間

の家に行くのはこれが初めてではなかった。と言っても前の記憶は中学生の時で、突然学校に来なくなったを不思議に思った学友たちに連れられて訪れたのだ。
しかし、偶然マンションから出てきたを見つけて牛島はすぐに隠れた。小走りで近寄ったクラスメイトたちはきっと皆気付いていない。
マンションから出てきた時の疲れた表情と頬に貼った湿布、潰れた酒の缶ばかりが入ったゴミ袋はすぐに隠されてしまったから。それから一週間くらいして、の氏名は『』になっていた。



「麦茶でいいか?というかそれ以外だと水しかないんだけどさ」

部屋の中からでも聞こえてくる蝉の声につられてつい昔の映像が頭を埋めていたがの声で今に引き戻される。あぁ、と簡単に返事をして二人で向かい合った時にはもう先程まであった昔のの顔も薄れていた。

「それで、どこが分からない?俺に教えられればいいけど」
「……ふっ」
「えぇ?何笑ってんの?」
「そんな謙遜は似合わない。ほど英語が得意なやつ、身の周りにいないくらいだ」
「言いすぎだろ。でもまぁ、確かに言語学にはかなり力入れてるから同級生には負けないかな」
「それは知らなかったな。何か理由があるのか」
「そこは、まぁ聞かないでくれよ」

いつも牛島の問いには明確な返答をするが答えを拒んだことに驚いた。言いたくない明確な理由があるのならこれ以上踏み込まないでおこう。ノートを走らせるシャーペンに力がこもったのに気付いて一度ペンを置く。何か気を悪くしたのかとの顔を伺ったが、何やら含み笑いを浮かべていたから尚の事踏み込めなくなってしまった。

「お、その話面白いよな」
「ん?」
「今開いてる問題集に出てる話。中身も面白いしなかなか為になる問題が載ってたと思う」

問題文を指差すの指には火傷のような傷跡が残っていた。居酒屋でバイトをしているとは前にこっそり教えてもらったが、人の怪我にはうるさい男が傷跡を残していることがなんとなく許せない。念を送るように見つめていたのに気付かれたらしく、ピッと指を隠された。

「バイト先でアヒージョ運んでるときに客とぶつかって火傷したんだ。相手に何もなくて良かったけどさ」
「お前が火傷をしたんだから良くはない」
「まぁまぁまぁまぁ」
「今日は流されないぞ」
「えぇダメ?それより俺が作ったまかないが褒められた話聞いてよ」

残念ながら、またしても牛島の負けだ。が小首を傾げて話し出してしまうと余程の事がない限り遮るなんて事は出来ず、言葉一つ逃さないよう耳を澄まして聞き入ってしまう。反省を次に活かそうと思い返す時にはやはり大した事ではなかった気がしてしまい、この連敗記録は止まらずにいる。

勉強はあまり進まなかったが、ずっと引っかかっていた謎が解消された。コツを教われば数をこなすのは一人でもできるからこの時間は無駄にしたくはない。むしろ、もっと引き延ばしたいくらいだ。

「『まだ帰りたくない』なんて思ってくれてたりすんのか~?」
「あぁ。そうだと言ったら?」

は三角に開いた口をそのままに目を丸くして驚いていて、その顔が天童に似ているなと考えているうちに、あっという間に唇は離れていた。
キスされたこと以上に、顔を赤くして余裕もなく困ったように笑うの姿を見て試合と同じぐらいに心臓の動きが激しくなる。骨に響くくらいどくどくしているのに息は上がるどころかわずかに止まっていた。

「急に口付けられたら驚く」

まるで冷静ではいられなくなる。きっとのしたいこと全てに付き合いたくなるし、たとえそれでバレーの練習時間を削ることにもなったとしても───そんなこと今まで考えたこともなかったが。

「あー……若利?」
「なんだ」
「ごめん」
「何を謝るんだ。『恋人』なら当然だろう」
「違うだろ。恋人だから何してもいいわけじゃねぇし、俺だって相手の嫌がることはしたくない」

はまだ耳を赤くしたままやはり困ったような顔でそう言った。とても紳士的な言葉だがには牛島が嫌がっている風に見えたのだろうか。

「嫌ではない」
「優しいな」

本心だった。嫌ではないが、心底驚いた。
どことなく友情の延長線上にあると思っていた関係が今の行為ではっきりとさせられたことや、という男の新たな顔を見られたこと。
自分がの恋人だと言うのなら、今まで胸の中に渦巻いていた違和感など相手にする必要はまるでなかったのだ。いつだって──それこそ牛島の方が顔をしかめるくらいの性格を持つ相手であっても──は恋人というただ一人の相手に誠実な人間だというのは、友人として傍にいた牛島が一番良く知っているから。



試合中のような高揚感。しかしその熱をぶつけるためのボールも対戦相手もいない。たまらなくなって名前を呼んだが、声に反応して牛島の目を見るその顔にはいまだはにかんでいて、尚更胸が高鳴った。


「また時間を貰ってもいいだろうか」
「えっ?」
「英語で分からない事があればまた頼みたい」
「あぁ。勿論!今回はバイトも入れてないからいつでも連絡くれよ」

帰り際、背中に回されたの手の暖かさは試合前に背中を押された時と同じで、しかしあの時のように冷めてしまうことはない。
喉に刺さった小骨が取れたみたいに、牛島の中にある形容しがたい憂う思いは消えていた。

「また明日学校で」
「あぁ」

試験期間が終わり、また会う時間は大きく減ってしまう事も牛島には些事に思えた。ここ数日間過ごした時間を思い出せばこの夏にと会うことがなくとも耐えられるから。

が自分を『恋人』だと言うなら、これ以上の特等席はないのだから。
 
<< >>
   戻る