蜉蝣の羽
雨は空を曇らせ視界を悪くしてしまうが、それでもこの雨音のおかげで嫌いにはなれない。町の汚れたあちこちを掃除しているであろうこの豪雨も、私が傘さえ持っていればきっと好きだったろう。
ノイズのように降り続く雨を見ながら背負っているリュックの中身を思い出してみる。濡れて困るものは、なかったはずだ。
時計の長針が10を差したら飛び込もう。カチ、カチ、カチ、カチ……規則正しく進む秒針と不規則で規則的な雨音。どちらも心を落ち着けるには十分な効果を持っていて、この雨でも気持ちは陰鬱とはほど遠い。
秒針が進む。7、8、9……
「ひどい雨だな」
さぁ走ろうと力を込めた足はある人物の声で動きを止めた。
「嵐山さん、お疲れさまです」
「お疲れ!お互い散々だな」
散々、とはこの雨の事を指しているのだろうか。だとしたら私はさほど“散々”とは思っていない。むしろ今私の前に嵐山さんが現れた事の方が“散々”だ。せっかく静かだった心が一気に騒がしくなってしまうから。
「ん、傘がないのか?」
「えぇ、天気予報見てくるべきでした」
「なら入っていくか。家まで送るぞ」
「……」
なんてことないのだ。そんな親切な言葉をかけることは。以前木虎さんにも言っていたように。
あのとき木虎さんは
「いえ、お構い無く」
あぁそうだった。駅までお願いしますと言っていたな。
「人を、待っているのです」
お願いすれば快く傘に入れてくれるのだろう。
「ですので大丈夫です」
「そうか?」
しかし私には、木虎さんと同じことは言えそうにない。
「もうじき来るだろうから。大丈夫です。本当に」
こういうときの笑い方をきちんとと学んでおくのだった。口元に変な力が入ったみっともない顔をうつむかせると、靴先は雨を染み込ませて色が濃くなっていた。
「そうか、気を付けて帰るんだぞ」
なんてことないように、人の良い笑顔を浮かべ一人帰っていく嵐山さんに、心のないお疲れさまですは聞こえただろうか。
雨のフィルターで溶けていくその背中を見つめながら収まることのない雨音に耳を澄ませる。騒がしくなった心をまた沈めるために。
***
この間も雨は降ったから作物を育てるには十分だろうに、今日も空は雨を降らした。ここ最近、人々が傘を手放さないのは皆この雨を予想していたからだろうか。
「今日も傘を忘れたのか」
「傘、買っておくべきでした」
雨も心音も十分騒がしい。トクトクと暖かくなる場所を心というのだと、この間雨取さんが言っていた。
「六月だから雨が多いのも仕方ないな」
「なるほど」
雨が多い期間を、玄界では六月と呼ぶのですね。
こぼれそうになる言葉は飲み込んで、仄暗い空を見つめる。
「折角だ。今日こそ一緒に帰りたいな」
「何故です?」
私の返しは不自然だっただろうか。何故なのかを言おうか悩んでいるような顔をしている。
「……迅は知ってるか?あいつがな、お前が今日、姿を消すかもしれないと言ったんだ」
「不思議な話ですね。その人のなかで私はどうやって消えるんですか?」
「それが、分からないらしい」
なんとも曖昧で不確実で現実味のない、そんな話を真に受けてしまうと。この人がなにか大きな騙し討ちにあいそうで心配になる。
「いいですよ。ただひとつお願いがあります」
「なんだ?」
「この間の言葉を、もう一度言ってください」
言葉足らずだったか。私を見てなんのことか考えていたが、何かを察したらしく嵐山さんらしい笑顔を浮かべて傘を広げた。
「入っていくか。家まで送るぞ」
「はい、お願いします」
***
「そういえば、はどこに住んでるんだ?」
「え?」
「いや、変な意味はないぞ!ただについて知らないことばかりだから、つい気になったんだ」
「つまり?」
「送ると言った手前どこに向かえばいいか分からないと送れないだろう」
「なるほど」
確かにその通りだ。だが決まった住居というものを持たないため適当な事を言ってごまかそうとした時、もう聞きなれてしまった警報が鳴り響く。
目の前の雨空は黒い穴を開けた。
「トリガーオン!」
行かないでと伝える前に、勇敢な玄界の兵士は近界民の迎撃に向かう。
行かないで嵐山さん。近界民の目的は私一人だけだから。裏切り者の私だけだから。
嵐山隊の強みは隊員同士の阿吽の呼吸だと言われているが、嵐山さん単体で戦えないわけではない。3体いた近界民は既に残り1体になっていて、その1体も嵐山さんと相討ちになる形で崩れ落ちた。全てのトリオン兵が破壊され、私は懺悔の機会を失った。
───と、思ったのだ。
最後のトリオン兵は体内に簡易型の子機を忍ばせていたらしい。逃亡先の玄界まで処刑すべく兵を飛ばしてくる国家だ。さすがに、そこまで甘くはないらしい。
「……、」
こんな小型兵容易く破壊できる。さらに言えばこのまま逃げ続ければこれは勝手に充電を切らしガラクタになるだろう。
でも今私が逃げれば、きっとまた兵は送られてくる。今度はきっと、数多く。
「大規模侵攻なんか、もう十分でしょう」
「ッ!」
耳につく雨音。
肌に張り付く服がなんとも鬱陶しい。
地面に伏すのは、トリオン兵と私だったはずなのに。
「い、やだ………やだやだ、嫌です嵐山さん………ッ」
地面に伏す嵐山さんの目はだんだんと虚ろになり、呼吸は浅くなる。頭の中で何か甲高い音がキンキンと鳴り響いてやまない。
何故、何故貴方が。A級5位の実力者だと誰かが言っていた。だから戦えていたはず。一人で逃げられたはず。私は私を殺すために立ち尽くしていたはず。
彼が今倒れているのはお前を庇ったからじゃないか?
頭に響く金属音が責め立てる。
嫌だ、ごめんなさい。
涙は溢れる。
私の目から、涙が溢れる。
「あぁそうだ、トリオン体になればこの傷は……」
吐息とともに漏れた一人言を、彼は聞いていたようで、細い息でもわずかに笑って
「そう便利なものではないさ」
弱っていく体で、いつにもまして優しい声で言うのだから、まだまだ私の涙は止まりそうにない。
蜉蝣の羽───さようなら
貴方といると心はざわめいてしまうから。
正体が知られて会うことがなくなるなら都合がいい。
「生きて、嵐山さん」
冷たい雨に包まれながら繋いだ左手の暖かさは私の最期の瞬間まで忘れられないだろう。
国の総力をあげて奪いにくるのは、人体への治癒力活性化という特別な力を持つ私自身だから。一度しか使えないその力は、今───
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