さよならも言わずに/モモンガ

あの男が姿を消してからもう幾何の時が経って、今では写真でも見なければ顔も出てこないのだから当然 声など覚えているはずもないのに。
それでもたった一言、そのままで、という声に否が応でも体が反応した。

「だから、そのままで。振り向くなよ」
「貴様の指図などを受ける義理はない」
「その場合俺はもう二度とお前の前に現れないけど」
「……」
「優しいのは相変わらずだな、モモンガ」

自分にしか聞こえないような小さな声では感情が読みにくいが、最初の時より少し緊張が緩んだ声で名前を呼ばれ安堵してしまったことが悔しかった。
このままでは手に持ったグラスを砕きかねないと息を吐きつつ手を離し、机に乗せたままの手を力強く握る。

「今までどこにいた」
「さあ。生き延びるのに必死で。自伝でも作って売れば大ヒット作家になれるぐらいのエピソードが山ほどあるんだぜ」
「……」
「怒ってる?」
「当然だ。今こうして貴様に手錠もかけず、大人しく座っている己自身にも腹が立っている」
「そうやって自分ばかり責めるのは体に良くないぜ」

背中越しに伝わる男の気配。今すぐ振り向いてその顔に拳を叩き込んでやりたいが、声と煙草の匂いだけを根拠に暴力を振るうことは許されるのか。──このまま動かない理由を探しているのではと言われれば否定できない──とにかく今のモモンガは男の言う通り振り向くことも応援を呼ぶこともせず、ただ男の声に耳を傾けていた。

「まさかまだこの店で飲んでるとはね」
「なぜ今更顔を出した」
「あの大戦で顔も変わっちゃったし、モモンガの知ってる俺はいないからもう会わないつもりだったんだ。あぁでも、それでもこの日ぐらいは許されるかなって」
「"この日"?」
「イーストブルーでは今日が何の日か、知らないか」

男──はくつりと笑い、その声こそその男がであると確信させた。何度も近くで聞いてきた声だ。間違えるはずがない。

ッ!」

急ぎ振り返ったがそれらしい姿は見当たらず、自分と向き合った位置に立っている店員ならと問いただしてみてもずっと誰と話しているのかわからなかったと言う。
自分の罪悪感が生み出した幻覚だったとでも言うのか。

「馬鹿馬鹿しい」

いつの間にかグラスの底に沈んでいる見慣れないメダル以外、ここは普段通りの酒場だった。


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