二人だけのごっこ遊び



『ずるいわ、貴方ばかり。私のほうが、ねぇ、私のほうが彼のこと好きなのよ?』

あの時僅かに嗅いでしまった香は、なんだったのか。





士遠が意識を取り戻したのとほぼ同時に部屋の襖が開いた。

「士遠、開けるぞ…ッ起きているのか?眼がないからよくわからん」

慌てた様子の声は同時期に山田家の門をくぐったのものだ。声でわかった。襖を閉じる音はしないがその代わり両膝を強く畳に打つ音とわずかな振動を感じ、の息遣いが近くに感じられた。

「うるさい。人の部屋に入る前に声をかけなさい」
「いやすまない──否、謝るのは君の方だぞ。一瞬目を離した隙に姿を消し、あまつさえ路地の影に倒れていたんだ。すぐに目を覚ましたのは良かったが……」
「すまない。私が君の買い物に付き合いたいと言ったのにかえって荷物になってしまったな」
「そこはいいさ、別に。君一人背負うのもなんら負担はないし、そのまま用を済ませて帰ってきた」
「私を、背負ったまま……?」
「あぁ。意外と軽かった」

最悪だ。頭を抱え項垂れる士遠にまだ体調が優れないのかと見当違いな不安を抱く男はこの際放っておこう。そんな醜態を晒しておいて町など出歩けるか。しばらく近付けない町を思い浮かべるのと同時に、違和感に気付く。

「ん?どうかしたのか」
「いや………

声のする方へ手をのばす。名前を呼んだからか、士遠が思っていたより早くその手は掴まれた。

「どうした士遠まるで普通の盲のようだぞ」
「あぁ、そうなんだ。いつもなら'視える'のに、今は何も見えなくてな」
「……は」
「はは。見えなくても今の君の呆けた顔は想像つく」
「笑ってる場合か」

掴まれた手は両手で包まれ、不安そうなの息が手にかかり背中にピリリとした電気が流れた。不快な感覚であるはずなのに、むしろその手を握り返しているのには自分でも驚いた。

「いつも言っている、波?というのが見えないんだな。他に異常はないか?」
「ないよ。耳は聞こえるし感覚もある。君の手は嫌に熱いな」
「そうか……。気は進まないが付知の所へ行こう。歩けるか?何ならまた背負って行くが」
「結構!」

言うが早いか既に腰に手を回していたので慌てて腕を押さえつけた。本人は親切心で言っているのだから文句は言えないが、若手や弟子も多くいる士遠の立場を考えてほしいものだと思いながら一人で立ち上がった。

「ほら、行くぞ」
「……」

差し出された手に掴まることすらしたくないのだが、これで断れば今度こそ担がれるだろうと諦めて手を伸ばした。


   ***

「だから言ったでしょう。毒ですよ」
「どく……それはどんな」
「一時的に五感が鈍るものではないかと。痺れ薬のようなものですが、音や匂いで周囲の状況を把握している士遠殿にとってはかなり負担になるでしょう。二、三日の辛抱です」

もっと早く毒抜きができていればこうはならなかったと棘を刺されたは自らの手で額を打ち小さく唸った。

「先程僕に殴られた道理がやっとわかった?」
「はい……面目ない………」
「よろしい。それはそうとしお殿、お体の具合はどうですか?実を言うと生きた人間に毒を使うというのは非人道的だと止められており研究ができていないのですよ。だから毒の接種から時間が経つと体内にどういう風に反応が出ているのかまだ知られていなくてですね、折角の機会なので血液の摂取をさせてもらっても構いませんか?もしかしたら変色したりしているのかな。血を抜く際痛みがあるかも教えて下さいね感覚器官にも影響が出ているかも!───あ、ちょっと!」

二の腕をしっかりと密着させて廊下を早足で移動するを振り解くことは容易いがそのままついていくことにした。しかし今は教え子に会いたくはない。できることなら。

「別に血液ぐらい提供しても良かったんだが……」
「駄目だ。結局流されて色々付き合わされる羽目になるんだぞ」
「経験談か?」
「あぁ。前にお茶屋の子が俺のお茶になんか別の草を使ってしまったらしくてな。その解毒の際に色々とされた。まぁもしあの時源嗣がいなかったらきっと帰れず店に迷惑を掛けただろうから、それに比べれば付知の研究に付き合わされる方がマシだが、無いに越したことはない」
「……」

呆れてものも言えない。茶屋を営むような娘が今更茶葉を間違えるわけがないと少し考えればわかるだろうに、何故それが自分に向けられた故意だとわからないのだろうか。

「故意、恋……うん。理にはかなってるのかも」
「何を言ってるんだ?」
「いいや。我ながら冴えていると思ってな」
「??この状況でか?」

一人で笑う士遠がまるで理解できないというように首を傾げているのは"波"が見えない今の士遠にも簡単に想像がつく。
呑気な士遠を諌めるように腕を強く引いては部屋の襖を開け手際よく座布団を用意しそこに座らせた。一つ一つの所作を声に出して片時も士遠の体から手を離さないのでこれでは完全に介護だ。情けなくも歯痒いが、ここまで献身的に面倒を見てくれる事実には驚きと密かな喜びが確かにあった。

「それで、何か毒について心当たりはあるのか?」

茶を入れようとしているのか、少しだけ遠くにいるはやはり真剣な声で原因を探ろうとしていた。

「心当たりか……」
「あぁ。日常の大きな変化には必ず原因となる事象があるだろう。それをお前が見逃す訳が無い」


『ずるいわ、貴方ばかり。私のほうが、ねぇ、私のほうが彼のこと』


「いや、皆検討もつかない、な!」
「……お前なぁ、俺は今こうして平静を装っているが、その実かなり心配しているんだぞ?今まで"視"えていた分、急に五感が封じられたのでは生活しづらいだろう」

が本気で士遠の事を心配していることなど朝からずっと分かっていた。無神経で大雑把な男が行き過ぎたほどに身の回りの世話をしてくるのだから、あの付知だって気づいているだろう。

「このまま医者に行かないのなら俺がずっとお前に付き纏い続けることなるぞ」
「いいよ」
「いいのか……!?」

脅しで言ったつもりなのならとんだ誤算だ。士遠にとってが側にいることなどなんの罰にもならないのだ。それこそ周囲の女に嫉妬をされるほど、が街へ行くときは士遠が並んで歩いているのだから。

「だがこんな体では君が段位を得るための鍛錬にどこまで付き合えるか──」
「それは問題ない」
「ん?」
「元より俺が段位を欲していたのは試一刀流四位である君に近付きたいからだ。君の側にいられるのなら他にはもう何もいらないよ」

「……君、そんなのだからあちこちの茶屋から出入り禁止にされるんだよ」
「えっ、急になんだ」





「屋敷の中なら敵襲もないが、不安があれば俺も今夜はここで夜伽をするが」
「ん?それはどちらの意味だろうな?」
「うん。無論寝ずの番で言ったが、お前がいいなら今すぐにも房事を始めるぜ」
「はっ……、いや……」

熱い手が腰を抱いて、耳元で囁かれた落ち着いた声では本気か冗談か、今の士遠には判断がつかなかった。

「ははっ!普段は冗談ばかり言っているくせにこういうのには弱いんだなっ」
!」

楽しそうに笑うその顔が見られないのはもう今さら言うまいが、しかし"波"が見えぬから本気か冗談か測りかねるのは悔しいのでまた後日言わせねばと拳を振り上げた。

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