37.9℃

「あぁ……ビッラでの仕事は終わったよ……え?いや、何もないよ。大丈夫。また電話する」

何もないなんて大嘘だ。光のない目は無機質に暖をとるための炎を写す。火を見ると癒されるという彼の気持ちが今は分からない。

「旦那様に、叱られるだろうな……」

寒さのせいか、薄暗さのせいかいつもよりナイーブになる自分が情けなくてつい乾いた笑いがでる。明日の早朝の便で発つのだ。今夜もまた報告書の作成で終わるだろう。睡眠は飛行機の中で取ればいい。


   ----

『車、出しましょうか?』
『この店そんなサービスしてるんですか』
『まさか。ただ私ももう上がりますし、このままだとミイラ取りがミイラになりかねないかと思いまして』

実際、ありがたいお誘いだった。今日は少し飲み過ぎていて、寝落ちたジーンを抱えて帰るには少し辛いものがあったのだ。

『……すみません、お言葉に甘えさせて頂きます』
『いえいえ。オーナー、お先失礼しますね』

虚ろな頭で何とか会計を済ませ、寝ぼけて歩こうとしないジーンを抱えて外に出るとそのウェイターはシルバーの車のドアを開け俺たちを乗せてくれ───余談だが、華奢な青年とも言える上品そうな彼はマニュアル車を華麗に飛ばし───あっという間にジーンの住むマンションまで送り届けてくれたのだ。

『ありがとうございます!もう!お兄ちゃんもさんにお礼言って!』
『まさか二人が知り合いだったとは……』
『二人が行ったお店、昼間はカフェとして営業してるんだけど、時々さんがザッハートルテを作ってくれるの。それがもう美味しくってっ!』
『はは、ロッタちゃんが美味しそうに食べてれるのが嬉しいから作り甲斐があるんだ』

二人の会話は見ていて微笑ましかった。ロッタが親しげに話している姿をこっそりカメラに収める。これもご主人様に報告しよう。

『さて、そろそろ行きますか。ロッタちゃん、紅茶ご馳走さま』
『え、もう夜遅いから泊まっていけばいいのに…』
『いやだめだよ。顔見知りとはいえよく知らない男を泊めるなんて』

両手を振って拒否の姿勢を示す彼はふとニーノに視線を寄越した。同意を求めてのことだったのだろうが、既に気力を使い果たしたニーノは今はただ眠りたかった。

『ここは客間が二つあるし俺も泊まるから、大丈夫だよ』

だからなんとかとそう言い残して、眠った。

   ----


「……、……あぁ……しまった」

暖かい夢を見た。
目が覚めたら見慣れた天井で、昨日はやっとの思いで帰ってきてそのまま眠ってしまったんだ。荷ほどきをしなければと立ち上がるも激しい目眩でまた座り込む。
これはまずい。明らかに熱がある。ビッラの寒さを甘く見ていたわけではないが、対策を怠った。関節は痛むし頭が痛い。

「……ふぅ」

追い討ちをかけるように冷蔵庫は空。それもそうか、出張中ダメにしてしまうわけにもいかないし。

「誰か……そうだ、さんとか、来てくれないかな……」

風邪を引くと人恋しくなる。
普段散々放っておいてこんな時だけ来て欲しいなんて都合のいいこと言えるわけないのだけど。

(何も聞かず、ただ側にいてくれるだけで……)

そんな女々しいことを考えている時、めったに鳴らない部屋のチャイムが鳴る。
仕事関連の書類かもしれない。壁に手をつきなんとかふらつく足を運ぶ。やっとの思いで開けたドアの向こうにいたのはだった。

「え……何でここに」
「前に車で送ったときこの辺りで下ろしたでしょう。悪いかなとは思ったけど、アパートの管理人さんに部屋を聞いたんです」
「そうじゃなくて、どうして……」
「ジーンさんが、ニーノさんがビッラでは殆ど外にいたから体調でも崩してないか心配していたよ。『俺とは暫く会うこともないだろうから、あいつのこと見てやって』って」

親友のことはお見通しだねといつもと変わらない穏やかな顔でニーノ笑いかけたが、今それに作り笑いすら上手く出来ないでいた。
どうして、どうしてこの人は。

「冷蔵庫開けてもいいですか?色々買ってきたからしまいたくて」
「あぁ……」
「スープくらいなら食べられそう?あ、これで熱測ってくださいね」
「あぁ……」

無音で真っ暗だった部屋は彼が来てから慌ただしくなりを潜め、今は暖かさが場をおさめている。ニーノはというと言われるがまま体温計をくわえ額にひんやりとした柔らかい手を置かれている。されるがままだ。

「すごく熱い」
「恥ずかしいとこ、見られたからかな」
「大の大人が千鳥足になるまで酔うのは恥ずかしいに入らないのに?」

窘めるように笑う彼の心地いい手がおかれていた場所はひどく冷たい冷却シートに代わって思わず顔をしかめた。

「……ッ、そういえば、俺もその夢を見てたよ」
「え?」
「今言ってたろ。俺たちが初めて会ったときの話」

彼はニーノの目を見てしばらく考えていたようだが、すぐにおもいだしたようで「あぁ!」と笑った。

「あれから俺達は親しくなったんだなぁて思い出してた」
「そうですね、あれから三人も親しい友人ができて。毎日が更に楽しいんです」
「……。あぁ、俺も。友人と呼べる間柄の人間なんて、そういないから」

体温計は38℃近くまで上がっていた。必死に冷まそうとしたがその前に取られてしまいを困らせた。

「これ、病院行った方がいいですよ」
「大丈夫。いつも寝てれば治るから……」
「眠いですか?」
「うん……」
「なら休んで。キッチン借りても?」
「いいよ……」

気にしないで帰りな、とか、せいぜいお願いしますと言うべきだ。熱で働かない頭のわずかな正常機能が色々な反省をしている間に、少し遠くから聞こえてくる小気味いい包丁の音が更に眠気を誘う。ぼんやりと、父親のいた頃を思い出していた。

「俺はさ、あんまり物を持たないようにしてるんだ」
「ん?」

トントンと野菜を刻む音は止まって、代わりにお湯の煮えるくぐもった音がよく聞こえる。

「天秤にかければ絶対に優先させるものがあるから、それ以外は持つべきじゃないんだ。傷つけるから」
「うん」
「それでも許してくれるかな、さん」
「……うん」
「手放したくないんだ」

カチャリと軽い音がなって火が消えた。お湯が沸騰した音も静かになり部屋は外の賑やかさから隔離された二人きりのものになる。

「君はそういうの、好まないんだと思ってた」
「迷惑かな」
「いや。ただ、後になって『熱に浮かされていた』と言わせる気は全く無いよ」
「……!治ったら、仕切り直してもいいかな」
「構わないけれど、その時は覚悟しておくように」

37.9

今はきっとどちらも熱い。

  Back