潮江文次郎


「こんな計算をミスるんじゃねぇッ!」
「ごっ、ごめんなさい…!」

私は文次郎が嫌いだ。いや、文次郎の親が嫌いだ。あいつの親は何かあればすぐに文次郎を殴った。痛くて、悲しくて泣いている文次郎に「これが愛だ」とほざいていた。文次郎もそれを信じた。
何度も寄り添ってそれは違うと伝えても、文次郎の心と体にどろりと染み込んだ価値観を拭う事はできなかった。
だから団蔵達にもすぐに手をあげる。辛そうな顔をして。手をあげてしまったその日の夜、文次郎は必ず鶴瓶井戸から水を汲み、それを頭から被るのだ。季節問わず、何度も何度も。
自分への罰だろうか、幼馴染みの俺でさえも声をかけられないほど殺気を帯びて、何度も水を被るのだ。
きっと筆を乱暴に置いて出ていった今もあいつは井戸へ向かったんだろう。まだ水を浴びるには寒くて仕方ない季節なのに大丈夫だろうか、なんて現状にふさわしくない考えは近くで啜り泣く団蔵達の声によってかき消された。

「団蔵、大丈夫か?怖かったな」
「ごめん、なさい…僕の代わりに、先輩が…っ」
「俺は大丈夫だよ普段の手合わせよりずっと軽い」
「先輩、これで冷やしてください」
「ありがとう」

なぁ文次郎。
団蔵と左吉は心配して泣いてくれるし、左門と三木ヱ門は手拭いを冷やしてきてくれたぞ。
文次郎、これが愛だよ。文次郎。お前がいないこの空間は、愛に包まれているよ。お前の知らないところで本物の愛は溢れているよ。

「さァ、委員長も出て行ったんだ。切りのいいところで今日は終わりにしようぜ」

ニイッと笑う右の頬が張ってるのがわかる。こりゃ手当てしないと明日腫れるな。


文次郎の父親の顔はぼんやりとしか思い出せないが、あの男の声と大きな手は映像のように思い出せる。これでもかと罵倒し、殴り、すぐに起き上がらなければまた殴り、泣き止むまで殴った。男の声を聞くたびに俺は大声をあげながら文次郎の父親に体当たりをしに行った。
自分の親でないから俺は畏怖も抱かないし、反撃ができる。でもあんな野郎でも文次郎には実の親だから、ぐっと手を握って暴力が終わるのを待っているんだ。
それがまた腹立たしくて。

懐かしい。
潮江家はまるで不幸の模範解答のような家族だった。
文次郎と遊ぶとき、あいつは帰り際に時々「十歳になったら俺は必ず忍術学園に入る」と語っていた。そんなあいつに俺は「今夜うちに泊まるだろ?」と返し、手を繋いで俺の家に帰るのがお決まりになっていて。
きっとあいつがあの言葉を口にした日は家で何かあったのだろう。素直に「泊めてくれ」と頼ってくれないところも、嫌いだ。

今だって、どうしたらいいのか誰にも頼れないで ただ自分の罪悪感や感情、過去の恐怖を水で流そうとしているんだろう?
遠くから見る背中は大きくなっただけの怯えた姿のままだった。

お前は愛を知らない。可哀想な人。
いつか本当の愛を知ることができたらその時はどうか、どうか心から笑ってくれ。
 

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