「お兄さん、血が出てますよ」
隠しきれていなかっただろうか。実習帰りの七松小平太は慌てて左腕を見る。血が出てる、というよりは包帯を染め上げた血液が小袖さえも染め上げようとしていたところだ。
「このくらい大丈夫だ!気にするな!」
山二つ町を一つ越えれば学園だ。近い距離ではないが出血死するほど遠くもない。伊作には怒鳴られてしまうが学園に着いたら手当てしてもらえばいいと決めていた。
「薬塗りましょうか」
「大丈夫だっ……、」
声を出した途端、視界の端から白く覆われ、足が地面から離れかけた。
「ほら、立ち眩み」
なんとか踏ん張りをきかせ倒れることは免れたがどうも力が入らない。
「止血薬塗りましょうか?」
「……では、よろしく頼む」
こんな山道に町娘が一人でいることに疑問を抱かなかったわけではないが、いつもの細かいことは気にしない精神が発動し、促されるまま近くの岩場へ移動した。
***
「少ししみますよ」
「あぁ」
薬壺から取り出した緑色の塗り薬は前に伊作に塗ってもらったものと同じ臭いがしたからきっと大丈夫だろう。盗み見るように観察してから腕を差し出し、女も一声かけてから袖をまくった。
「ありがとう!えっと……」
「あぁ、
です」
「そうか!私は七松小平太だ!ありがとうな
!」
血は止まり、しばらく岩場に腰掛け他愛もない会話をしていたが、そろそろ学園に向かおうと腰をあげた時、曇天はとうとう雨を降らせた。
「雨だ」
そう思うのもつかの間、雨は次第に強く激しくなり、五分もしないうちに豪雨となった。登り慣れた山ならともかく、見知らぬ山では雨で緩くなった山肌を動き回ることも叶わない。状況がこれ以上悪化する前に町娘を抱え近くの洞へと移動した。
「雨止みませんねぇ」
滝のように降る雨を眺めていると娘はふと声をかけた。
「そうだなぁ、こんな所でじっとしているのは退屈だな……そうだ!薬の礼に何か食い物をとってくる!夜遅いから、もう寝ていていいぞ!」
雲に覆われた空では正確な時間は測れないが子平太が最後に時間を確認してからもうずいぶんと経過している。夜は冷えるからと羽織をかけたが、
は遠慮して首を横に振った。
「私は大丈夫です。夜の山は危険ですよ」
「大丈夫。私に任せておけ!」
娘からの忠告も聞かず、小平太は食べ物を探しに外へ出てしまい、娘の肩にかけられた衣ははらりと落ちた。
***
「起きてるし」
「気が張って眠れませんよ七松さんと二人のときに。何かあったら困るんで」
「なははッ
、私にも相手を選ぶ権利はあるぞ!」
「くそ、失礼な」
戻ってきた小平太は洞を出た時と同じ笑顔で、袴の裾が土砂で汚れたこと以外特に変わった様子もないと確認していると、
の顔の前にずいと何かが差し出された。
「枇杷がなっていたぞ!食え!」
差し出された2つの枇杷を受けとると、小平太は手に持った1つの枇杷を豪快にかぶりついた。
「雨はだいぶ弱くなったな。どうする?」
「どうするとは?」
「
みたいな子が夜になっても帰ってこないと分かったら親は心配するものだろう?」
「まぁ……うちは特に過保護ですし」
「なら雨が弱いうちに帰った方がいいんじゃないか?」
「でもご心配には及びません。それより七松さんだって自分の心配をした方がいいですよ」
「どういうことだ?」
は今までよりも更に声を潜め小平太から目を離さずに言葉を続けた。
「ここの山は、恐ろしい忍が蔓延っているので下手な真似はしてはいけませんよ」
驚きを顔に出さないように、それでいて彼女の言葉の真意を探る。
一瞬、自分が忍であると気付かれたのかと思ったが、まるでかくれんぼを楽しんでいるような彼女の顔からはそんなことは伺えない。ただの言葉を深読みしすぎたようだ。
「下手な真似ではないだろう。山で遭難した娘を町へ帰してやるだけなんだから」
「……それでも、忍は現れるかもしれませんよ?」
「細かいことは気にするな!その時は私がいけいけどんどんでやっつける」
自信に満ちたその目にかける言葉が何も見つからなかったのか、娘は困ったように眉を下げながら笑った。
「行くぞー!つかまってろよ!いけいけどんどーん!」
早い。激しい。油断したら振り落とされると必死に肩を掴み体を寄せ付けた。
岩を飛び越え木々を跨ぎ、駆け抜ける途中の葉で頬を切ってしまうのではと思うほどに早かった。夜の暗さも視界を埋める雨も足を掬おうとする土も彼の前では何の障害にもならないのだと知る。
(恐ろしい人だな……)
尊敬の意を持って、恐ろしいと思った。それと同時に“惜しい人だ”とも。
***
「……ッ!」
気配を感じ数歩後ずさる。しまった、これは何人だ?あからさまに露にされた幾人かの殺気と隠されている何人もの気配。こうも囲まれてしまうまで気付かなかった。いつもなら長次や伊作が真っ先に気付くものだからついその癖で偵察を怠っていたのだ。
「
、少しここに隠れていてくれ」
「え?」
「ちょっといけいけどんどんで片付けてくる!」
「七松さん!?」
勝算は半々であった。見知った山ではないとはいえ普段から裏々山やその他の山で鍛練を積んでいるのだから、山での戦い方は分かっている。
勝てなくのも数を減らし娘を抱えて逃げることはできるだろう。懐から苦無いを取りだし目前の敵を刮目する。
キンッと。その音は投げた手裏剣が弾かれた事を意味する。さっきまでこれほどの敵を一人で相手できると喜んでいた小平太も、今じゃ筋が浮くほどに不機嫌であった。
「くそッ!」
何度攻撃を仕掛けても読んでいたかの如くかわされ、暗闇に乗じた攻撃や姿すら現さない敵に怒りが募り、一か八か縄鏢の先へと駆け上がった。
「見つけたぞ」
木の上で縄鏢を握っていたのは見たこともない衣を着た忍。
「もう逃げられないな」
一気に距離を詰め回し蹴りを決める。縄鏢を木に上手く絡めたせいで殺せはしなかったがこの調子で片付けていけば少なくと
もを帰すことはできるだろう。大丈夫、行ける。
「いけいけどんどーん!」
自分への鼓舞か余裕の現れか、咆哮したかと思えば次々に木へ飛び移り敵を落としていく。狭い木の上ではうまく避けられるはずもなく、敵から打ち出される手裏剣を苦無でいなしていくしかない。うまくそらし損ねた八方手裏剣はわずかに小平太の肉を裂いていくが
「これくらい大したことないぞ! だから
!そんな顔をするな!」
困ったように眉を下げる彼女は小平太の言葉に一瞬だけ安心したように見せたがすぐに顔を強ばらせ「後ろ」と呟いた。
「しまったッ……!」
この時、この一瞬で、ようやく大きな実力の差というのを感じた。恐ろしいものだ。プロは相手を殺すとき、殺気すら感じさせないのか。
「……ッ」
投げられた苦無は自分の体の皮を破き、内蔵を貫き、そして、死ぬんだと思った。
だが死どころか痛みすらやってこない。
無意識に閉じた目を開くとどういうわけか忍達は皆膝をつき頭を垂れている。
「どういうわけだ……?」
「お灸を据えるのにはいいかと見ていましたが、やりすぎです」
底冷えするような声を落とすのは先程まで物陰に隠れ怯えていたはずの
だ。
「どうですか?七松小平太。これが本物の忍、本物の殺し方です」
カラン、と投げ落としたのは自分に向けられたはずの苦無。まさか、あの速度で投げられたものを止めたとでも?できるわけがない。でも現に、苦無は自分へ届かなかった。
「
、お前は何者だ?」
「先程まであなたが実習で嗅ぎ回っていたのは我々のシマわわけですよ」
「シマ?」
「……まぁつまり、あの辺を支配しているのは
率いる忍軍ということです」
「
が、頭なのか…!」
「まったくあの学園長も食えない人だ。私が頭なら彼が見つかったとしても殺さないだろうと踏んだんでしょうね」
「お前、学園長を知っているんだな」
先程かららしくもない動揺をしてばかりだが許してほしい。なんせ一度に訪れる驚きが大きすぎるのだ。
「潜入が目的だったとはいえ、私もあの学園の卒業生ですしね」
「そうなのか……ですか」
「小平太、君はもう少し回りへの注意を払うべきです。力を過信しているのか知りませんが、戦ってどうにかなると思わないこと」
言葉を返そうと口を開いたが突然視界が歪み口からは言葉になりなかった空気が漏れた。
「霞み扇の術に引っ掛かるとは、これでも六年生ですか?」
頭の術をかわせる方もそういないでしょう、ずるりと木から落ちそうになる小平太を抱える忍は心の奥でそう呟いた。
***
「……あり?」
「おはよう小平太。目が覚めたんだね!」
状況が分からず瞬きを繰り返す小平太のために、医務室の伊作はここまでの経緯を話した。
「いやぁ、
先輩が小平太を連れてきたときは驚いたよっ」
「伊作、
のこと知ってるのか?」
「知ってるもなにも、僕が二年生の時の保健委員長だよ?」
くのたまだったから、ほとんどのことは五年生の委員長代理が行っていたけどね、と付け足されたのを聞いてそりゃ顔を合わせなかったわけだと納得する。
「おい小平太……お前、
先輩にお会いしたのか……?」
「あの人を呼び捨てにするとは、どんな出会い方をすればそうなるんだ」
伊作の後ろで胡座を組む二人は今日も今日とて喧嘩をしたのだろう。体のあちこちに砂や傷をつけた姿で質問を投げ掛けてくるのがなんともおかしかった。
「お前たちも
を知ってるのか。伊作とはどこか違うようだけど」
「あの人は恐ろしかったからな」
「文次郎との喧嘩で怪我をしたと知れば、それはもう悪意を込めて作られたであろう恐ろしい塗り薬を出されてな……」
「拷問だな。焼いた鉄を乗せられるように傷にしみた」
恐ろしいなどと二人の意見が一致したのだから、きっともうじき雨が降るだろう。昨日と同じ雨。雨でぬかるんだ山を動くのは危険だと散々言っていたが大丈夫だろうか。
「私が心配するだけ無用だな」
「ん?何か言ったかい?」
「何でもない。伊作、私これからも鍛練に励むぞ!」
「どうしたんだ突然」
「鍛練を一番ギンギンに積んでいるのはこの俺だ」
言ってろ、やら何だとやらで医務室は騒がしくなり、やって来た新野先生により犬猿の仲である二人は降りだした雨の中に放り出された。
「よく分からないけど、
先輩に会って何か思うところがあったんだね」
「まぁな!」
遠くに憧れ
「ところで小平太、今回の実習は不可だって」
「え」
うむ……彼女の元まではまだまだ遠そうだ。
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