いつからだったのだろうか。いや、鈍感なフリをするのはよそう。
ペストマスクの下にある整った顔は苦しそうに歪んでいるが、顔全体を覆うマスクのおかげで気付かれてはいない。──もしかしたら一歩前に立つボスには息遣いで気付かれてしまったかもしれないが、現状最も気が動転しているのはそのボスであるはずなのできっとそんな余裕はないはずだ──クロノスタシスは衣服に隠れた手を強く握って焦る気持ちを抑え込もうとしたが、どうしたってこの状況は改善されないのだろう。

「……もういい」

雨垂れのように、先ほどと同じ言葉を落としたは前髪でその目こそ見えないが、口には力がこもっていて、今にも叫びだしたいのを堪えているかのように頰の筋肉が震えていた。
二人がこうして喧嘩をするのはこれが初めてではないが、今回はきっといつもと違う。いつもとは決定的に異なる点があるからだ。
今床にある懐中時計はもう針を進めることはできなくなっていた。渦中の男──治崎廻の手で叩きつけられた際にガラスは割れ、針や歯車が飛び出し壊れてしまったからだ。

「……」

もういい。男はそれだけ眩いて踵を返した。

「……治崎」
「黙れ」

そして治崎もまた無言のまま迎えの車に乘り込んだため、この無人ビルに残されたのは壊れた時計と玄野だけとなった。

「ひどい話だ」

だから玄野が堪えていた思いを吐き出して行動に移したって、誰にも咎められることはないのだ。


   ***

本家の傍にある古いアパートの一室がの部屋で、ここは汚いからと治崎が立ち寄ることはなく、必要にかられてここを訪ねるのはいつも玄野一人だ。



そして今日も玄野一人で部屋を訪れた。何度ドアをノックしても声をかけても返事はない。
合鍵を持っているのは治崎だけだ。来ることもない男に鍵を預ける理由なんてわかりきった事なのに、治崎はその理由など考えたこともないだろう。布にくるまれた鍵を手袋の上から受け取ってその埸ですぐに玄野に預けた時は玄野の方が苦しくなった。

「どこか引き出しにでも入れておけ」

それだけ言って仕事に戻った治崎に嫌な顔もせず、さも当たり前のようには頭を下げていた。

、いるんだろう」

気を遣うのも馬鹿らしくなって力強く戸を叩くと、鍵をしていなかったらしい扉は勢いに負けて音を立てながら開いていく。

「……いないのか」

普段なら頼まれごとがない限り本家かここにいる男が他に行くような場所など思いつかない。仕方なく戻ってくるのを待って部屋に立ち入る事にしたが、室内は玄野が思っていた以上に殺風景だった。
必要最低限にしか置かれていない家具、少しも溜まっていないゴミ、唯一生活感のあるパソコンの周囲には新聞紙や週刊誌の切り抜きが散らばっている。どれも周囲の組やヒーローに関するものだ。

(本当に組の事しか頭にないんだな)

そんな男ではあの仕打ちは堪えただろう。昔馴染みゆえの同情の念を抱いていると玄関の方に人の気配を感じ反射的に身を隠した。

「ん…!?」

影が腕を振り上げたのに気付いてすぐに身を翻す。隠れるのに使っていた棚は振り下ろされた短刀が刺さり破損している。自分の家にも容赦がない男は家への侵入者が玄野であるとは気付いていないのだろう。殺気を隠しもせず玄野が避けた先へ踏み込んできた。力任せの攻撃は普段より重く、地の利がない玄野は思わずの名を呼んだ。

「…なんだお前か。不法侵入だぞ若頭補佐」
「すまない…いや、最初は声をかけたんだが反応かなくて」
「俺が中で首吊ってるとでも?」
「……」
「ジョークで言ったのに」

落ち込んでいると思ってきただけに顔を下げたままくつくつと笑っている姿は予想外だった。

「大丈夫なんだな」
「なにが?」
「あいつの行動に何か思うところがあったんじゃないかと思っ、て……」

藪をつついて蛇を出す。さっきの笑みは自嘲である事には薄々気付いていたのに、それでも聞いてしまったばっかりに蛇を出してしまった。
冷ややかな目はどこか遠くを見ているが、口元だけは努めて穏やかな表情を浮かべていた。

「思うところも何も。元々ああいう人だと分かっていたのに、俺がつけあがった結果だよ」

忠実な駒であれば、意見しない兵隊であれば治崎は相手がそれ以上望まないよう思考を回さぬよう適度な飴を与えていた。それで満足していればよかったのだ。は玄野と同じように部下ではなく幼馴染としての信頼を望んでいた。

『治崎、玄野、これを持っててくれないか?』

渡された懐中時計はまだ学生の頃、が支給される僅かな小遣いを貯めて買ったものだ。お揃いなんて恥ずかしい真似よくできると思いながらも手放せないでいた。口にしないだけできっと治崎も同じであったはずだと思っていたのに。


『もういい。いらない。お前の意思はいらないんだ、最初から』


学生ではなくなり、ある程度力を持つようになってからは一心不乱に治崎のために働いていた。奇襲や拷問も買って出て、血にまみれる事が多いからと治崎には近づかず影ながら暗躍していた男がたまに治崎と介すれば学生の頃と違い頻繁に喧嘩をするようになっていた。
歯車がズレ始めたとすればこの頃からだろうと今にして思う。分かっていたところで玄野が何かできたとは思えないが、もし何かしていたら今の二人の苦しそうな顔を見ないで済んだかもしれない。

「……、これを」
「ああ。わざわざ回収したのか」
「治崎だって一時の感情でやった事だろうし」
「あいつに限ってそんなことがあるわけないだろう」

玄野がハンカチに包んで持ってきた懐中時計はあの時治崎が叩きつけたものだ。もう使えないとはいえ無人のビルにそのまま置いていくのは忍びなかった。

「でも、ありがとう。わざわざ拾ってくれたんだな」

ずっと握っていた短刀を腰にしまい空いた両手で丁寧に受け垠る。一瞬触れた指先は冷たくて柔らかい温度だった。

「みっともない姿晒してごめん」
「あ?」
「むしろ、今まで持っていてくれていた事をありがたく思うべきだったのに、そこを当たり前に思ってたんだ」
「……とにかく、一度本家に来い。治崎を庇った時の怪我を見てやる」

断らせる隙を与えず二人で何もない静かな家をでた。無理やり腕を引いて玄野が前を歩くのもが大人しく後ろをついてくるのも昔から変わらない。屋敷の敷居をまたぎ屋内に入る前に玄野が大きく息を吸ってに向き合った。

「あの時計なら俺もまだ持っている。安物だろうと思っていたが今も動いてるぞ」
「へえ…嬉しいな。まだ動くんだ」
「お前も持っているんだろう」
「あるけど、この間見たらもう動かなくなってたんだ。修理を怠っていたから」
「そうか」
「時々全分解……ああそうだ、それこそオーバーホールをしないといけなかったんだけど」

一方的に引っ張っていた手を今度はが握り返し、ついそちらに目を向けた。その間も彼は不細工な顔で笑っている。

「いつもあるから、当たり前に思ってた」
「捨てるのか?」

恐る恐る聞いた問い。は答えなかった。うっすらと笑みを浮かべた顔のまま、ため息とも呼ベないくらい微かに息を吐いてとうとう屋敷の中へ入っていく。




「捨てるなら、今度は俺が新しいものを用意しよう」

そこにはいないが、庭に面した廊下に治崎がいるのはわかってる。
が受け取った治崎の時計がどうなるのかも、玄野の言葉を聞いた治崎の心情も。はっきりとは見えないけれど。



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