愛はいらない

乾いたうめき声はそれだけで不愉快だが、それよりも更に不愉快なのが、その最期だ。
その汚くも醜い体に、触れている。羨望などと綺麗な言葉は使えないほど嫉妬に狂い、今にも叫びだしそうになるのを手の甲に爪を立て鎮めているので、男の左手は人に見せられない程かさぶたにまみれていた。

「掃除しておけ」
「はい」

全く幸福な最期を迎えられたと思う。血肉は全て失われ、骨と布だけになったそれを睨みつけて男は言った。
「お前が心底羨ましい」と。
男は金で雇われた傍仕えであるが、街の英雄という姿が虚像であるとわかればわかるほどクロコダイルに惚れこんでいった。
もし今賃金を払わないと言われても仕事を辞めはしないだろう。それくらいにのめり込んでいるし、雇い主の方もその事実を黙認している。尊拝するような人間の方が扱いやすいからだとはニコ・ロビンに言った言葉だが、男はそれも事実だろうと頷いていた。
これは妄信的な信仰である。だからクロコダイルからの見返りは求めないし、不快であれば捨ててくれて構わない。ただ一方的に思うことだけを許してくれれば。

「俺ほど家臣に向いてる男はいないよ」

目の前の骨は肯定も否定もしないけれど。


   ***

アラバスタにやってきた海賊は、民に扮したの誘導に乗せられ"悪党"としての役目を見事果たし、クロコダイルの英雄譚の一つとなった。
英雄として民に敬われ崇められるクロコダイルの姿を見る事だっての喜びで、その"舞台"から役目を終えて戻ってきたクロコダイルを袖で待っているのが常なのだがこの時は違った。

「……おい、あいつはどこ行った」
「さあ、青い顔をして先に戻ったわ」

事実を淡々と述べ歩いていくニコ・ロビンの後ろで、クロコダイルは咥えた葉巻を大きく吸い火を強く燃やした。
煙に紛れて呼ばれた男の名前は誰にも聞かれることはなく、当の本人はバナナワニの泳ぐ水槽に衣類を纏ったまま浮かんでいた。照明の光を受けて水は青にも白にも光り、水面に浮かぶボロ布を纏った人間など餌とも思わないのかバナナワ二は避けるように水底を泳いでいる。
おかげで男の浮かぶ水面には大きな揺れも起きないため、身動きしない男が生きているのか水死体となっているのかはクロコダイルの立つ位置からはわからなかった。

「おい」

呼びかけても声は返ってこない。するのは水の跳ね返る音や空調の音、砂がザラリと周囲を撫でる音だけだ。

「おれに返事もしない気か」

思い通りにならないことなど許されない。自分が譲歩することも相手に寄り添うことなど許さない。その男の二度目の声掛けには水に浮かぶだけの男もドブンと水中に潜り、プールの淵から水に濡れた重い服に苦労しながらもなんとかあがった。一歩進むたびにしがみ付いていた水が耐えきれずびしゃりびしゃりと落ちていく。重い足取りでも少しずつクロコダイルの方へ近づいた。

「……」

自分のスーツが濡れるのも厭わず俯いたままの男を蹴り飛ばす。体格差も筋力差もある相手からの蹴りに踏ん張りが効くわけもなく、あわや水の中というプールの淵まで吹き飛んだ。

「おれが呼んでるんだ。すぐ来い」
「……申し訳ありません」

その言葉を吐く口を拳の裏で殴りつける。今度は倒れなかった。

「ごめん」
「チッ」
「さっき、の……さっきの海賊を誘導する時、あいつら、肩組んできたんだ。触ってきた。肉の感触とか温度とか気持ち悪くて」
「いい加減慣れろ」
「たとえクロコダイルの命令でも慣れることは出来ないらしい」

俺が人間である限り、この肉塊の気持ち悪さはきっと拭えない。
そう言って自身の腕を強くつかむ。きっと血が止まっているだろう箇所は僅かに震えていた。

「お前の思想など興味ねェ。が、そのせいで計画に支障を来すような真似はするなよ」
「勿論。勿論だとも。俺はクロコダイルのために持てるもん全て捧げる覚悟など息をするたやすく決めたさ。アンタが命令すれば、俺は殺しも男娼だってなんでもやるよ」

その言葉にクロコダイルはまた眉間の皺を深くしたが、いまだ強く握る自身の腕を見ている男はそれに気付かない。

「だからさ、クロコダイル。君の野望が果たされたと時は、どうかアンタの手で俺を砂にしてくれよ」

その時は、その時だけは人肌を享受できるだろう。己の存在と威厳を主張し続ける華美な装飾品で着飾られた血色の悪い手を頰に添えて、満足げに笑みを浮かべるか、もう用は無いと冷めた顔をするか、どちらにせよクロコダイルが自身の体を崩す光景は想像しただけで今の苦悩を和らげてくれる。

「自殺志願なら他所でやれ。おれに余計な手間をかけさせるんじやねェ」

殴られた頰が赤くなっている。きっとすぐにでも腫れてしまうだろうがそれを気遣うような人間がここにはいない。

「唯一のお願いなんだ。聞いてほしいな」
「……」
「俺の中の水分が全てクロコダイルに取り込まれていくのかな。もしそうだったら、それ以上に幸福な最期なんてないんだけどなあ」





頰にあたる雨が、アラバスタの民の歓喜の声が口に広がる鉄の味が動かない手足が痛む頭が"英雄"の敗北を告げている。朦朧とする意識はそれでも右手を握らせ、些細な男の言葉を思い出していた。

『どうかアンタの手で俺を砂にしてくれよ』
……」

お前の願いは叶えない。
まだ自分の野望すら、果たされていないのだから。



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