いつもはテンポの早いカツカツとした靴音が今日はずいぶんとゆったりだ。だから普段なら廊下を歩く音で気付くのに、遅れた。
「モモンガ?」
「……」
「失礼しました、モモンガ中将」
「留守番ご苦労だった。不在中何か問題はなかったか」
「報告すべきような事はなにも」
「……言葉を変えよう。不在中あった事を報告してくれ」
「あははぁ。えぇと何から始めようかな。まず備品ですが、潮の影響で巡視船の航海が長引き重油が不足。隣国同士の戦争が影響し補給日が延びたため、燃料切れを避けるために巡視の距離を縮めて行っていました。次に、装備班から海楼石の錠が追加で納品されました。早速番号を付与し最近海賊捕獲実績のある少佐3名、軍曹2名に渡しました。後閲決裁の中に入れてあります。それから海賊との戦闘中軍艦一隻中破。怪我人は重軽傷含め十二名。殉職はなし。一番近かった島のドックに入れて修理を行っていますが、そこがあまり海軍をよく思っていないらしく見積もりが普段より割高でした。病院も同様です。なにより、現地の子供たちは身なりが不衛生な様子から食料や物資が行き届いていない様子で、私も島に────」
「分かった。ずいぶんと慌ただしかったようだな。よくやった」
「……いえ、仕事ですから」
ゆっくりとした足取りで部屋の奥へ向かうモモンガのために椅子を引いて迎えたが手で制されモモンガは座ることなく窓際へ向かった。
「陽の光が眩しい」
「寝てないんですか?徹夜とはまたご苦労な」
「
」
「はい」
「ドアは閉めた。二人しかいないのだからその話し方を止めろ」
「えぇ、さっき自分がそうしろって言ったんじゃん」
「言っていたか?」
「目がね。確実に言ってたよ」
「そうか……」
「ねぇ、今日のところはもう寝ちゃいなよ」
またしても椅子に座らせようとした
の手を払い落とす。あ、と素の声を出したのはどちらだったかは分からないが咄嗟に謝ったのはモモンガだ。
「すまん」
「いいよ別に。分かったんでしょ」
俺の機嫌が悪いこと。
窓際に歩いた時にヒビの入った壁が目に入っていた。払いのけるつもりはなかったが徹夜が続いた頭はすべきでないという考えに行動が追いつかなかったのだ。
「俺も作戦に参加したかったなァ」
「バカを言え」
「そうだよねぇ。好きを公言するのは良いことだと思ってるけど、こんな形で跳ね返りがあるとは」
「お前は来なくて正解だ」
「ファンとしては直接お会いしたかったけどね」
「………」
「ねぇどうだった?本物のUTAは」
「
、」
「結局海軍の思い通りになって良かったね。今はもう満足感でいっぱいかな」
「
准将ッ」
元々二人しかいない部屋だ。互いが黙れば物音はなくなる。静まり返った部屋で先に動いたのは
の方だった。
「悪い。疲れてるとこ」
どうせベッドは使わないだろうからソファで寝られるようにしてあるよ。最後にそう言って
が部屋を出れば今度こそ無音に包まれた。
「……」
寝てしまおう。冷静になれないのは疲れから来るものだ。注意しなければならない事は見てみぬふりをして、いまだ研ぎ澄まされたままの交感神経を無理やり押さえつけるようソファに体を沈ませた。
わざわざカバーを干してくれたのだろうか、かび臭くない生地がひどく懐かしい気がした。
***
「おはようございます」
「……あぁ」
眠ったかどうかも分からないうちに起床のラッパが鳴りバインダーを抱えた
が部屋へ入ってきた。昨日の今日で気まずい思いをしているのはモモンガだけなのだろうか。淡々とした様子の
はいつもどおり報告を済ませ部屋を出た。
「……」
置かれた書類の一番上にはモモンガ宛の親展封筒が置かれている。心当たりがあり一番に手を付けると案の定、中身は
・
の今後の処遇についての書類だった。
『上は今までのUTAの配信見たことないでしょ。だから敵視するんだ。あの子が起こしたいのは大犯罪じゃない』
『多くの子供達が彼女の歌に希望を抱いている。苦しい現実から少しでも安寧を得られるならそれを奪うべきではないよ』
『全員が同じ方向を向くならそれに越したこと無いんじゃないですか?こんな終わらない戦争時代よりずっといいと思うけど』
もたげた頭を上げられずため息をこぼす。あの場に赤犬がいなくて良かった。モモンガの顔を立て懲戒処分は免れたが、この現状に到底相応しくない組織批判をしたことによる監察指導は入ることになるだろう。そう思っていた矢先にこの封筒だ。
「現場主義のお前には大した罰にもならなそうだが」
「……」
「ニ階級降格。また中佐からやり直しだそうだ」
「………」
「折角准将になったのに私の文官として本部勤めをするよりは海に出る方が性に合っているだろう」
残念ではあるが、また共に仕事をする機会があれば、そう言いかけたところで
は辞令を破り捨てた。
「辞めます。これなら」
「───はっ?」
「組織批判したらすぐ降格?ただ口にしただけだ実行に移したわけでもあるまいに」
「お前を慕うものは多い。ゼファーの二の舞なるのを恐れたんだろう」
「はは、買いかぶり過ぎだわ。さすがに」
懐から取り出された『辞表』は文字の丁寧さとは不釣り合いな皺や角の折れが目立ち、長いことその制服にあったことが伺える。
「……ここを辞めて行く宛はあるのか」
「ガキじゃないんだ。いちいち言う必要ある?」
「
准将、今は上司として聞いている」
「あぁ。失礼しました。まずは海賊狩りでもして資金を集めて、保護施設を作りたいですね。悪人を裁くのではなく、悪人を産まない。そんな正義を果たしたい」
「逃げるのか」
わざと放つ言葉に
はまんまと引っ掛かった。僅かに刮目させて、意識して抑えていた声が大きくなるのにも気付かずに辞表を机に叩きつけた。
「……」
「俺の行為を逃げと言うのか。なら、最後だから聞くがお前、あそこで赤髪が止めに入らなかったら世界のために自分のしている事すら分かっていない一般人を殺したか?お前の上司の命令に従ってさ!」
「!?誰から聞いた?───いや、そこに"いた"んだな」
「はは、そう。謹慎命令は守ってたぜ?家から配信を観てただけ」
「お前は……ッ」
「あの子の口にした世界こそ俺が叶えたい世界だ。『天竜人も奴隷も平等で、海賊や病気に怯えずにすむ世界』。夢物語だとは思うけどね」
「そのための世界転覆なら構わないとでも言うのか」
「彼女がそこまでするつもりだったのか、まずは刀を向ける前に話を聞くべきだった」
深い色の瞳に映る小さなランプの灯りが消えてしまいそうに揺れている。「現実逃避だ」と呟いたモモンガこそ今この瞬間現実逃避しているというのに。
「あの子は海賊じゃない。子供だ。大人が守るべき子供だった。子供に刃物を向けて、それが世界を守る姿だと?」
「やめろ
准将。仕方のない事だった」
「───見習い時代に抱いた海軍を、正義を、俺は未だに見続けている。いや、現実から目を逸らすために目を離さないでいるんだ」
「……
」
「どこかで折れれば良かった?そちらに染まってしまえばどれほど──」
「
!」
思い切り両肩を掴んで揺すぶって、こっちを見ろと目を合わせて悪寒が走る。
冗談でも愚痴でもなく、
はきっと、本当に、今の海軍に辟易しているのだ。
「内側から見た海軍の汚さには、ずっと前から嫌気がさしていたんだ」
「それでもここまでやってきたじゃないか」
「あぁ。だってずっと、お前がいたから」
縋るように掴んでいたモモンガの両手を軽く払いのけてだらりと下げた両腕に力はなく、慣性を受けてわずかに揺れた。
「お前だけは、俺にとっての正義を映していたからさ」
それだってもう、今回の一件で無くしているのかもと疑念が湧いて
「モモンガを悪だと言ってるんじゃないんだ。俺とは正義が異なっただけ」
「ならお前の正義をここで突き通せ。離職など、逃げの行為だ」
「ここじゃ、俺が守りたいものは『仕方のない事』だと見捨てられる。海軍は抑止ではなく断罪が花形だから。それに、俺がここに残る唯一の足枷が外れたんだ。これで堂々とお別れできる」
いつの間にか、
の瞳にはまた光が宿って顔色すらよくなっている。今ひどい顔をしているのはモモンガだけだ。
「今までありがとな。俺を“正義”でいさせてくれて」
「おれは、お前を信じていいんだな」
「うん?」
「この辞表を受理して、お前が海軍の門の外に行くのを見送ることが正しいのかわからない」
「俺は嘘はつかない」
「あぁ……そうだろうな」
本当のことなのだろう。『ここに残る唯一の足枷が外れた』と言う
の顔はもはや晴れやかだ。モモンガの静止はおろか、言葉すらきっと届かない。傍を離れないでくれなんて願いは冗談でも言えそうになくて。
「それじゃ、またな!」
またな、と言ったんだ。
その言葉を嘘にしないでくれとも口には出せなかったが。
口ずさむ灯台の歌
目指す宛がない。暗い海に浮いたままの船で船乗りはとうとう船を捨て海に飛び込んだ。
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