虚空に捨てる愛

海の波音だけを聞いていたかった。
声高に繰り返される言い訳やおべっかも、苛立ちをそのままに怒鳴るドンの声も、響く銃声や怯える野郎どもの声も

「聞きたくない気分なのになァ」

海の波音だけを聞いていたいのだ。今は。
遠くに見えるカモメが怯えて寄ってきやしない。与えようと思い手に持った残飯はそのまま海に投げ入れた。どうせ食っても美味かない。

「捨てるならおれにくださいよ」
「こんなカビはえたパンが食いたいって?」
「腹減ってるんで」

もう空腹に悩まされる立場でもないくせに。
鼻で笑う俺の言葉は決まりが悪いらしく、バンダナを下げたギンは甲板に胡座をかいた。

「それに、いつまで敬語なんだよ。今の総隊長はお前だろ?」
「先代のアンタが引退宣言したからおれが任命されただけだ。今でも戦闘最強はアンタのままでしょう」
「クリーク海賊団での最強、だろ。そんな井の中の蛙で褒められてもなァ」
「……さん」
「いいのか?頭領から目を離して」
「今は穏やかなもんですから」
「あれでねぇ……」

ほとほと嫌気がさしていた。声高に繰り返される言い訳やおべっかも、苛立ちをそのままに怒鳴るドンの声も、響く銃声や怯える野郎どもの声も。耳を塞いでも遠くへ移動しても波の音に耳を傾けても聞こえてくるその喧騒が嫌なのに、それでも船を下りないのは、働かずとも寝食に苦労しないこのぬるま湯を手放せないことと、目の前の男のせいだ。

「ギンお前、今日も最高だな」
「それ、よく言われるが意味分かりません」
「残念だなぁ」

本当に残念。言葉の意味に気付いて赤面してくれるもよし、本気で嫌がるもよし、喜んでくれたら、尚の事。

「残念だ、ギン」
「っ、」
「お前は今俺を不快にした。だから罰として手合わせを命じる」

これは八つ当たりだ。絶対勝てない相手にサンドバッグにすると言われて何故笑っているのか分からない。自分に長時間痛ぶられる事を喜んでいるとでも言うのだろうか。

「おれぁ、強くならなきゃいけねぇ。頭領クリークの右腕としてッ」
「………あっそう」

お前はまた、俺を不快にした。




「うぅ……ッ」
「もう立てない?」
「………ッ」
「あっそ。じゃあここでおしまい。アザになるから早く冷やしとけよ」

我に返る時はいつもギンが甲板に膝をついてからだ。素直に謝ってやればいいのに、本当にちっぽけなプライドというやつが言葉を飲み込ませる。
すまない。お前が首領の話ばかりするからつい嫉妬したんだ。
そう言えば良かったのに。


   ***

「『優しくされたのは初めて』か。失恋じゃんなァ」

もうほとんど原型を留めていない艦の上から双眼鏡を覗き込み、独りごちた。
仲間の死体を食ってでも生き延びる気でいたから、首領が船員のために食料を持ってきた時は初めてと言ってもいいくらいに使える奴だと思った。無論、それがまたいつもの汚い手口で手に入れたものだとは分かっていたが。

「あんな男のどこに惚れたんだ、ギン」

勿論俺の声が聞こえるわけもなく、遠くに見えるギンは手に持っていたガスマスクを海へ投げ捨てた。


ギンが首領の腹に拳を入れた時は気分が良かった。敬仰し、畏敬の念を抱き、献身する首領が敗北した姿を見て、とうとう見限ったのかと。だが喜びも一瞬。糸が切れたように倒れ込むそれを、あろうことか担ぎ上げたのだから、糸が切れたのは、俺の方だ。


「もうこれで決別だな」
「え?」

体内に残る毒が苦しいのだろう。ギンは浅く苦しそうな呼吸と目の下の濃い隈をつけながら船出の準備をしている。そんな小舟でどこまで行けると言うのか。あまりにも馬鹿馬鹿しい。

「悔いが残るといけないから聞いておくが、俺と来ないか」
「………」
「そうだよなァ」

なら最後にこれだけ許してくれよ。穏やかでない心中を悟られぬよう力加減に気をつけながらギンの左腕を引き、丸薬を含んだ俺の口に奴の唇を当てた。

「!?っふ、んッ」
「……ははっ、いい気分」
「ゲホッ!な……!?アンタ今何飲ませ…ッ」
「解毒剤だよ。量はまぁ、完治量の半分くらいしかないけどな」
「………!」
「俺、お前が欲しかったんだ。だからといってこの時まで何もしなかったんだが」

海賊には向いてなかった。未知への探究心もなければ強さへの向上心もなく、極めつけに自分の欲しいとするものへの執着心も、然程なかった。

「だからお前を諦めて、どこかでいい嫁さん見つけるよ」
さん……」
「もしお前が……お前らが生き延びてまた会ったら、その時は首領を殺すよ。俺、あいつの事が大嫌いなんだ」
「……薄々感じていましたよ」
「そうか」
「それじゃあな、ギン」
「さようなら。さん」



いつになく険しい顔をしているのもどうせ毒のせいだろう。



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