私がこの日のことを鮮明に覚えているのは、珍しくアラバスタに大雨が降っていたから。
まだ幼い身では処理しきれない程の血の色や匂いを五感で感じたから。
“太陽の守護神”と謳われる彼が、凍てつくような生気のない表情を浮かべ、誰にともなく懺悔の言葉を呟いていたから。
白い歯を見せ笑うその顔に、大きな横一文字の傷がついてしまったから。
「
さん!」
「言ったろォ?俺は副官になる気はねぇ」
大きな背中を追いかけるのは昔から変わらない。“アラバスタ最強の戦士”などと持て囃されているが、そんなの、少し能力が目立つだけだ。数いる護衛官の中で最も腕が立つのはこの男だと、今でも断言できる。
「誰よりも強いじゃありませんか!」
「強さだけあってもなァ……」
がしがしと頭をかきむしる右手には消えない傷痕も多く、今までの苦節を物語っている。
「俺はなペル。この国が好きだ。生まれ育ったしな。かといって命差し出す程の忠義はねぇ。強いってのも、痛い思いしたくないから実力をつけただけだ」
「……」
「国のために死ねない男に、一体誰がついてくる」
「……それでも私は、」
「止めてくれよ」
「……ッ」
「俺に夢を見るのは止めてくれ。いざという時、俺は足がすくんで敵に立ち向かえない臆病で独善的な男だ」
嗚呼、またこの人は嘘をついた。
楯突くことなんて出来ないから、漏れかけた悪態をなんとか飲み込んで、声もでない喉の代わりに隈取りされた表情を目一杯歪ませた。
「な?みっともないだろ」
そんな私の表情を見下したと勘違いした男はまた自身を蔑み、とうとうこちらに背を向けて行ってしまった。
嘘つき。
そう罵ってやりたいのに。もはや植え付けられた呪いのような、盲信的に、心酔し、神格化すらしている相手にどんな罵声も浴びせられない。愚かな自分に嫌気がさすが、だからといって今更抜け出せるものでもなかった。
***
アラバスタを護ると決め城の敷地で鍛練を始めた頃には、既に
さんはコブラ王の護衛として共に城下を歩いていた。
人に好かれる性格や程よく王を甘やかし、かといって過度な保護はしないスタンスが評価されたイガラムさんのお墨付き護衛隊員は、国王の外出時だけはきちんと身なりを整え制服に袖を通すのだ。
そんな姿をずっと見ていたくて、私は己の分も弁えずついていきたいと駄々をこねては置いていかれ、頬を膨らませていた。
そんな自分を叱らず、むしろ町から持ち帰ったお土産を与えて機嫌を直していたのだからそれは恥ずかしくなるくらい甘やかされていた。
アラバスタを護る護衛官は数多い。
さんは持ち前の明るさと面倒見の良さから多くの後輩たちに慕われているのに、そのなかでも何故か私だけは一等目をかけられていた。それが何故なのかは、いつも聞き出せないでいたのだが、手合わせの最中ぽろりとこぼれた疑問に彼は笑って答えた。
「お前が徹底して自分を甘やかさないから、俺が代わりにお前を甘やかしてんだ」
「…………成程」
今だから言うがな、と始まった言葉はなんだか告白じみた雰囲気がして握る刀を強く振るった。
「それなら何故、私の“甘え”を聞いてくれないのですか」
「ん?」
「私は貴方にも副官の座に就いて欲しい。肩を並べてこのアラバスタを守りたいのに……!」
パシン、強い衝撃に手が痺れ、竹刀が落ちる。興奮して意識が疎かになっていたとはいえ武器を落とされる瞬間に気付けなかった。
「ほら、私なぞまだまだです」
そう言って竹刀を拾い上げる間も、
さんはうつ向いたまま何も言わなかった。
「お前が覚えてるか分からないが、俺は過去に一度小隊を率いて遠征に出た事がある」
「……はい。存じております」
「なら知ってるだろう。あの時の帰還者は俺一人だけだった」
「…………」
「誰も守れなかったんだ…その上遺族へ頭を下げに行っても誰も俺を責めなかった」
「責めませんよ。せめてアラバスタで眠らせてやりたいと一人で全員分の亡骸を運んできたんですよ、皆感謝すれど……」
「それじゃダメだろ」
「え?」
「上に立つ者に課された責務は、死体を持ち帰る事じゃない」
卑下しているのだと思った。
自分が副官になれない理由を述べて逃げているのだと思った。
食い下がる私を説得させようと並べた御託だと思った。
だが、ビビ様が『英雄』の仕組んだ仕掛けの前に悔恨の情を浮かべているのを見て何かがストンと胸に落ちた。
『全力を尽くすのは当然。その上で全てを護らなきゃ務まらん』
ビビ様も、護衛兵も反乱軍も海賊たちも、皆全力を尽くしている。
その上で全てを守れずにいるのなら、後は他に何を捨てるべきか、答えはもう決まっている。
背後でビビ様が私を呼ぶ叫び声が聞こえる。本当は今すぐ駆け寄ってその澄んだ綺麗な目がこれ以上涙を溢さないよう傍でお仕えしたいが、今はそれよりも、するべきことがあるから。
地表を離れ太陽へと近付いて、熱を感じたのはほんの一瞬。あとの事は、何も分からない。
「よく頑張ったなぁ、ペル」
落下した先、身体の骨が砕けるような痛みの中で、爆発の熱とは違う熱さの正体が誰かの体温だったのだと、気付いたのはそれから暫く先、まだ自分が生きているのだと知った時だ。
***
「ー、…………ー、
、
さ、ん…」
「はいはい、ここにいるよ」
死んだ筈だった。
だから意識を取り戻し瞼を持ち上げた先に
さんの姿を確認したときは絶望したし、あの仕組まれた内乱で、この人が命を落とした事が許せなかった。
それを嘆こうとして体に走る痛みが私がまだ生きていることを証明し、
さんが私をここまで運んでくれたのだと知った。
それからも家主と
さんが世話をしてくれて、痛みで意識が朧気だった頃からは多少マシになったものの、今も身体の自由はきかない。いつまでも
さんの世話になることは心苦しかったが、それ以上に傍にいられることに喜びを感じてしまう。
「ペル、入るぞ。──そろそろ薬が切れる頃じゃないか?」
「いえ、まだ、平気……です」
なんとか声になった言葉はしっかり
さんの耳に届いたようで、部屋の隅にあった椅子を私の前に持ってきて座り、無理はするなよ、と落ちかけていたブランケットをかけ直す。咄嗟にお礼の言葉がでなかったが、それを気にした様子もなく
さんはゆっくりと口を開いた。
「……やっぱり、お前はすごいよ、ペル」
「……」
「俺は『あの時』命がけで任務を全うすることから逃げた」
『あの時』とは顔に消えない傷を負ったあの任務の事だろう。あの時の光の宿らない
さんの目はいまだに忘れられずトラウマのようにはっきりと脳に浮かぶ。
「俺が死ねなかったのは国王や、お前の顔が浮かんだからなんだよ。ペル」
「……!」
「ここで俺まで死んだらどれだけの人を悲しませるのか。そう考えたら死ぬわけにはいかなかったんだ。いや、そう理由づけて逃げたんだ」
「……、さ、ん……」
「でもお前は逆だった。国王やビビ様の事を思えば自らの命を捨てる覚悟があったんだな」
立派だと頭を撫でる手は幼い頃から何度も乗せられた優しい手なのに今は胸を満たす喜びも幸福感もない。むしろ寂しさを感じるばかりだ。
何て言えば正解なのだろう。
俺だって
さんの顔が浮かびました。あれだけ命を無駄にするなと言われたのにと心が痛みましたが、この死は決して無駄ではないと思ったから。
さんも国王と等しく死なせたくないと思ったから。
だから自分が死ぬ道を選んだんです。
焼けた喉からはそんな声は出ないけれど、すがろうにも指一本動かせない自分に出来るのは歪む視線を目一杯男に向けて無言の抗議をするだけだった。
「……泣くほど痛いのか、ペル」
違います、貴方に俺の言いたいことが欠片も伝わらないからだ。
「待ってろ、今鎮痛剤を貰ってくるから」
椅子から立ち上がろうとする
さんの腕をろくに動かない指が捉える。
「ペル?」
「……に、ここに、いてく、ださい……」
なんとか引っ掛けた指が離れないよう力を込めるが、ただ指が震えるだけで少しも力など入らない。簡単に振り払えるだろう指は傷だらけの手に優しく撫でられ、頭上から小さな笑い声が聞こえた。
太陽に焦がれた鳥
「ペルから甘えられたら、聞かないわけにはいかないよな」
近付きたくて羽ばたいて、羽でも焦がせば向こうから手を伸ばしてくれるのだろうか。
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